昭和44年11月14日 朝の御理解



 御理解 第94節 
 「信者に不同の扱いをすな。物を余計に持って来ると、それを大切にするようなことではならぬ。信心の篤いのが真の信者じゃ。」

 なかなか難しいところですね。教祖様のお取次ぎをなさる御態度というものは、どんなに身分が高かろうが、または卑しい身分の者であろうが、けっきょく神の氏子としての取扱いしかなさらなかったと。時の殿様、「蒔田候」ですかね、あちら。候が、お参りになられ、また奥方がお参りになられるような事もあったそうですけれども。それを、特別の取扱いというものをなさっておられません。
 やはり、皆同じに扱うておられます。これは、なかなか、しかし出来ない事だと思うですね。私共でも、ここにこうして、おかげを頂いておる時ですね。まあ、私はここお昼まで、12時まで御用させてもらいますが、その間にお参りをして来るどういう人であろうが、一子同人と言うか、同じの同じ見方、同じ取次ぎを願う者、取次ぎをさせて頂く者としておかげを頂くんですけれどもね。
 けれども、これが一度ここを下がらせて頂きますと、そんな訳には参りません事が多いのです。そこで私がいつもここんところを思うんですが。大切にしてはならんと仰るのじゃないのですから、不同の扱いをしてはならんと仰るのですから。大切にしてはならんと仰るのじゃない。不同の扱いをしてはならん。そこで私は、ここを下がらせて頂いてからの私の生き方という物、変わり方という物は、だから誰でも大切にするという生き方を、私は取らせて頂いとります。
 不同の扱いをすなという事ですから。それは、例えば初めての御信者であろうが、長い信者であろうが。お供えが出来られる信者であろうが、出来られない信者であろうが。そこを私は、いわゆる神の氏子としての、ここの見方、頂き方を持って、皆を大事にさせてもらうと、大切にさせてもらうという、まあ生き方を取らせて頂いとります。まあここには、まあ色々問題がありますけれども。
 そこで私は、これはお取次ぎをさせて頂く者の側であり、またお取次ぎさせて頂く者の一つの生き方が信念になって来る訳ですが。なら、お取次ぎを頂く者の側といたしましては、どういう事になっておるだろうかと。自分達のような者はもう、大事にされよらんといったような、僻みといったような物があってはならない。信心の厚いのが真の信者じゃと、こう仰いますが。信心の厚いのが真の信者。
 信心が厚いという事は、どういう事であろうか。いわゆる、神様がご覧になっての私。先生にでも見られてからの私と、というものがです、僻まんで済む一子同人に見られておる私として、私は思えれるような信者。またの御理解にですね、御理解21節の中に。神徳の中におっても、氏子に真がなければおかげはなしと言う一節があります。神徳の中におっても、氏子に真がなければおかげはなしと。
 神様は一子同人に見ておって下さる。先生は一子、一緒に見ておって下さる、これはもう私の生き方ですけれども。お供えを沢山持ってくる信者を大切にして、そうでない者を粗末にするような、不同の扱いをしてはならんと、こう仰るが。これはもう私の性格として、どうしてもこの、何と言うですかね。人ほとめき(人の接待)と言うでしょうか。私はその、一度ここを下がってから。
 さあ自分がお茶でも頂きよる時なんか、これはもう誰でもない。誰でもそん時に来合わせた者。やっぱり、それを誰でも同じように、まあ取り扱わせて頂きます。ですから、そういう取扱いを受けておると、信じれれる。例えば神様が同じに見ておって下さるのに、自分だけは不同の扱いをされとるといったような、あの考え方、ね。そういう考え方ではおかげにならん。
 私はどこまでも、神様を信ずると言うか、また教祖様を信ずると言うか。言うてござる事を、教えて下さっておる事を、絶対の信を持って頂かなければならん。絶対信を持って頂く。あの辺は少し、まあオーバーに教えておられるのであろうと言ったような物ではなくてですね。そのままを信じれれる。例えば、御理解96節に。「神のことを口端にかけるのも、神のひれいじゃ」と、こう言うておられます。
 神の事をとやこう、こう悪口を言ったりする。それを悪口と思うと腹が立つです。自分の大事にしておる物を粗末に扱われたりしますと腹が立つ。けれども、それも神のひれいじゃと、こう仰る。それも神様の働きじゃと。いや、むしろ生き生きとした働きじゃという意味ですね、ひれいと言うのは。ですから、それは方便に仰っておられるのではなくてです。本当にそうだと信じれる。
 そすと、どういう事になるかと言うと、ならその事に対してお礼を言いたい事になって来る。 まあ例えば、金光様の信心を分からない。例えばこの教会の一つのシステムといったような物を知らない人達がひょっこり見えて。今申しますように、信者さんは大事にされるばってん、まあ初めて参った者を粗末にされるといったような言い方をしたり、そしてそれを悪口にしたりして、言うようなことが耳に入ってくる事がある。
 本当に信心の薄い者、信心のない者ばっかは仕方がないと言った様な見方ではなくてですね。それが神のひれいだとそれは神様の特別の働きなのだと、こう信じれれる所にその事に対して神様の生き生きとした働きに対してお礼が申し上げられるのですけれども。その事で腹を立てておる様な事ではつまらん。信ずると言うたら私はその神様のお言葉と言うか、教祖様のお言葉という物を絶対の物として頂くと。
 信心の厚いのが真の信者じゃとここに仰っておられるのは、そういう信者を指して言うておられるのじゃないかとこう思う。信心の厚いのが真の信者じゃと。ですからならここで、もう私の是は生き方なんですね。ここではまあ皆さん私を信じて下さらなければおかげにならん。是は昨夜の御理解。夜の御理解は何時も一口ずつですけれど。昨夜の御理解は信心は見やすいものじゃが、氏子から難しゅうするとこう仰います。
 難しい見やすいものとは思われない。けれども見やすいと仰るのだから、やっぱり見やすう頂かにゃいかん。どういう所を見やすいと仰るのだろうかと、こう思う。例えばね、信心、素直になるという事だということ。だから、こんなに見やすい事はない。自分の左と思うておっても、神様が右と仰りゃあ、はあそうですかという、それが信心なんだと。それをいいえ神様左ですとこう言う様な考えの所に信心がえらい難しゅうなってくる。それこそ、赤子のような純粋さと言うかね。
 そこになって来ると、信心はなるほど見やすいものじゃなあ。いわゆる、神様任せにさえなっときゃとか、親先生任せにさえなっとけばというほどに、見やすいものになって来る。信心は見やすいものじゃと。だから、その見やすいものにするまでが難しい感じが致しますね。やはり、自転車に乗り習うと、やっぱり乗り習うまでは難しい。けども、乗り習うたら難しいと思うては一つも乗っていないでしょう、見やすい。
 鼻歌交じりで乗って行けれるようなものなの。信心は見やすいものじゃ。ならそのそう見やすいものだ、見やすいものにするという事が、本気で素直になろうとこう努力をする精進する。そして金光様の御信心っちゃあ見やすいものだなあ、先生の言いなさる通りして行きゃあ良いからと言うようにこう頂く。私はそういう信心を私は手厚い所謂信心の厚いのが真の信者じゃと仰るのはそういう信者じゃとこう思うです。
 そこでならここで私が申します事をです。はあ先生の言われる事には少し駆け引きがあるだろうと。全部が全部を聞きよるとやり損なう。十言われることは八つばかり聞いとこうというようなですね、事では私は、信心が厚いとは言えない。先生の言われる事が本当なんだけれども、実際はそうは出来ない、出来ないところをお詫びをして行くという姿勢。そういう信心を、私は手厚い信者じゃと。
 そういう信心をですね、致しておりませんとね私は。先生は今私がここで申しましたように、御結界にこうして奉仕をさせて頂いておる時には、はあも、身分の高い人であろうが低い人であろうが。又は沢山お供えをする人であろうがお供えが出けない人であろうが、一子同人にお取次ぎが出けておる信者に不同の扱いをすなと。そういう者だけを特別に大事にしてはならんと、大切にするような事ではならんとこう仰るが。
 これは私の性格としては一度ここを下がったら、矢張り大切にしなければおられんのが私の性分なのである。所謂ひとぼとめきという訳なのですから私は不同の扱いをすなと仰るのだから、皆を大切にしたらいいんだという頂き方。そういう私は頂き方を取り次ぎ者として一つの信条としてさせて頂いておるという風に、こんな申しますならです。皆さんも本当親先生はそういう人だと。
 信じて下さらなければ、良いものが生まれて来ない。いや先生あげん言いよんなさるばってん、自分の好いたとだけには、こうこうしよんなさるばってん、好かんモンにはいっちょんほとめきなさらんと、いう風に頂いたんじゃ駄目なの。なるほど先生はやっぱり、ああいう人だなと。そこに、例えば、自分なあ、もうどうせつまらん信者じゃから大事にされんとか、いうような。
 でも、そこからすでに根本的と、そこからおかげの受けられない事になって来る。いわゆる、真。信心の厚いのが真の信者じゃと仰るその、信心の厚いという事は信ずる事が厚いという事である。昨日、十三日会が済みましてからね。色々、話し合いが幹部の方達が残っておりました。まあ秋永先生を先頭に菊栄会の連中、総代さんが、久富さんが一人残っておりました。それが昨日は、松栄会でもございましたから。
 松栄会の連中もみんな残っておりました。私共は食堂の方で、ご飯を頂いておる。松栄会の人達はこちらの炊事場の方でご飯を頂いて。そしてその、何ち言うですか。食堂の方で頂いておる者にはお神酒が出てる。そすと、松栄会の方にはお神酒が出てないから、向こうまで、向こうの方にもお神酒が出とるけん、こっちはお神酒は出らんとじゃろうかて言う。で、私があの、あそこ焼酎が少し残っとるのがあったから。
 はあ、ここには焼酎があったばい、あんただん焼酎を頂きなさいち言ってから焼酎を持っていった。それを見てですよ皆さん。やっぱり先生は不同の扱いをしござるじゃないか。もう御結界を下がってから、片一方で、もうそれこそ特級酒、まあ特級酒しかないけん、特級酒を出しておる。片一方には焼酎どん出してから、それがもう既に不同の扱いじゃないかと言われれば、そうでもある。
 けれども果たし、なら食堂におる人も、炊事場におる人も、そういう感じを受けたであろうか。先生やっぱ一様のほとめき心で一様に扱うてござるとしか思うておらんと、私は確信してるんです。実際、目の前でそれがあっとっても。だから、あの人達には特級酒出して、俺達には焼酎しか出さじゃったというような人は、まあ昨日の中にはいなかったと思うんです。いや、むしろ、その私の一つの情と言った様な物に、何かしら有り難い物を感じたような感じがこちらに通うて来るんです。
 ですから、その形の上においては不同の扱いをしておるようにあるけれども、心の上において一つも、私は不同の扱いをしてないんです。ですから、そこのところをです、皆さんがあの、信じて下さらなければ、もう次のお取次ぎをさせて頂く時、そのおかげにならんです。同じ先生方の中でもそうですよ。他の人達には私がビールを例えば進めておる。末永先生だけは、もうアンタはもうビールじゃいけんけんで。
 そこに二級酒があるなら、例えば一級酒二級酒とこう置いてあるなら、私は二級酒の方を取って、久富先生には注いであげる。同じ先生達でも。それで久富先生が俺にゃ二級酒どん飲ませてから、自分だんビールどん飲んでからとは決して思いござらんです。ね。皆さんもご承知のように、久富先生はただお神酒が非常に好きだと。だから問題はですね、その本当に私が不同な扱いをしないと。
 例えて言うと、みんなを大切にしておるという事。私はそれで一端、久富先生を大切にしとるつもりである。ビールを出してあげておる方にも大切にしておるつもりである。ですからその辺のところはもう、形じゃないのです。だから、私のそういう取次ぎをさせて頂く者の信条というものが、私の内容に、一つ定められているものがあってですね、自分の心の中に。それを、私が行じておる。
 だから、それを信じて下さる。それを信じて下さる、私は信者が、手厚い信者じゃと私は思うです。信心の厚いのが真の信者じゃと。だからここは、結局、真の信者、信心の厚い信心を頂く。または、不同の扱いをしない取次ぎ者というものがここに合い寄らなければ本当のおかげになって来ない。そこを、私は信じて頂く信心と、信じて頂くと言うとおかしいですけども、信じられる信心。
 それを絶対な物として信ずる。いわゆる絶対信です。先ほども申しましたように、神の事を、悪口を言う。「       」悪口言うかと言うて、腹を立てるのではなくてです。それはむしろ、生き生きとした神様の働き、神のひれいじゃと教えておられるから、それを神のひれいじゃと素直に信じれれる信者。それが信じられるところにです、信じられるところに絶対信。
 だから、神様の言うて下さる、教えて下さる、教祖様が教えて下さる、親先生が言いござるという事には、決して間違いがないんだと、私は信じられ、素直に信じられる信者。そこんところを、昔の先生方は、先生が例えば赤い物を、これは白よと言われたら、段々それを見よるとその、赤い物でも白く見えてくるようにならなければ、おかげは受けられんと言うておられます。
 みすみすどげん考えたっちゃ、誰が見たっちゃこれは赤じゃないかと。親先生は赤を白と言いなさる。と、例えばそれに抵抗して来るとか、反抗して来るような事ではおかげは受けられんち。赤と思うたら、先生が白と言いよんなさったら、言いよった方に段々白に見えて来たと、いうぐらいな、私は信がなからなければ、お道の信心は本当のおかげは受けられないと、昔の先生方は教えておられますが。
 昔じゃなく今でもやはりそうだと私は思うです。先生はみすみすあげな事言いよりなさるばってんから、それはと例えば言う事がありましょう、私の在り方の中に。けれどもそれをそう言うたんではです信が生まれて来ない。もう本当に馬鹿ほどに私は素直に。悪い事でも良い事ばいち。それは悪い事に決まっとるじゃないですか先生と言わずに、段々お話頂きよる内に、それがいい事に思えて来るくらいな素直さ。
 そこになってくる時に、そこんところが頂けて来るようになった時に、信心な愈々見やすい物になって来るんじゃないでしょうか。私この94節というのは、もちろん言葉にもハッキリ出ておりますように、取次ぎ者に対するところの戒め。取次ぎ者の心掛けだとこう思うのです。けれども取次ぎ者がその心掛けでおるならばです、その心掛けでおられる事を信者が信ずるというところに、私はその絶対信が生まれて来ると。
 そこで、なら今日私皆さんに申します。私は、物をたくさん持ってくると、それを大切にするような事じゃならんと、こう仰るが。物を、たくさん持ってくる者も大切に、私はすると。その代わりに、物をそれこそ持って来ない者でも大切にすると。これが、私の信条だと。私が皆さんにこう言うとるけん、それを皆さんが頂くなら、ほんな事、親先生っちゃそんな人だと、もし信じれて行ったら、貴方がたは、いわばここに、信心の厚いのが真の信者よと、こう仰る。
 信心が厚い、信心がいよいよ厚うなって行きよると言うて良いと私は思うです。けれども私はもう、目の当たりに、目の当たりに見たと。先生は片一方には特級酒を出して、片一方には焼酎どん出しござったっち。(はっはは、)と例えば思う人があるとするならです、これは、その人もおかげ頂かれん、私もおかげを受けられない事になる。けども、そこんところは一つの雰囲気というもの。
 同じ「  ?   」が取ってしまってあるから、同じ部屋であってです。片一方には特級酒が出よる、片一方には焼酎が出よるという中にあっても、やっぱり先生はどちらでも大切にしござる、本当に大切しござるんだというものが、もしあの場合あそこに感じられたならです。昨日は、例えばなら、何人もおられましたね。佐田さんもおられましたし、秋永先生、久富さんもおられた、末永さんもおった。
 ですからもうその人達がそういう風に思えたらです、今日私が申します事を信じて頂きたいとこう思う。なかなか取り次がせて頂く者、取り次がれる者。実にそのデリケートな物がありましてね。ですから只今申しました様な所を皆さんが信じれれる信心。いわゆる、信心が厚いのがと仰る。信ずるこの、その事を信じれれる厚い信者にならせて頂かなきゃならん。信じよう信じようと思うけども、信じられない。
 そこに信心の破綻が生まれてきます。ね。まあ何と申しましょうかね。まあ結局私共と貴方がたとの、この合楽というものがです信じ信じ合えれる。嘘を言いござったっちゃ、それが本当に聞こえてくる。言うなら痘痕も笑窪に見えてくる。と言う様な私は一つの情感というような物が、お互いの中に育ってくる信心。94節から今日はそのような事を聞いて頂きました。
 私はどうもやはりまあ人を大切にするち言うと、あんまり自分を買い被ったような言い方ですけれども、とにかく私のまあひとぼとめき的なものが、そのやっぱり性格的にあるという事は、自分でもそれを本当に感じます。もう本当にない物でも、あるようにして出したいと言った様な気持が心の中にある。だから、それが自分に都合の良い人、便利の良い人。いや、自分のまあ好きな人にだけは、そうするけれど。
 他の者にはしないと言うなら、これはもう、いよいよこの御教えに、私は反しておる事ですから、おかげにならん。けれども、その辺のところが、私は誰でもを大事にしておるという、私の信条を皆さんが信じて下さる。為には、やはり私共と皆さんの間の中の雰囲気と言った様な物がまあ、良い雰囲気に育てられて行かなきゃならんのですけれども。そこを段々信じれれるおかげを受けて、絶対信の。
 いわゆる、先生の言われる事に、いわば間違いがないと。例えば初めの間は嘘と思いよったばってん、段々話を聞きよる内に、本当になって来たというぐらいな物が、お互いこの、育って行かなければいけない。取り次ぐ者、取り次がれる者の一つの機微とでも申しましょうかね。そういう物をここでは教えられとると、こう思います。私は、これは自分の自惚れかも知れませんけれどもです。
 まあこうして朝の御祈念で、ならお参りをして御理解を頂いておられる方達は今私が言うた事を信じて下さるように思う。例えば昨夜の話じゃないけど、片一方に焼酎片一方に特級酒というような雰囲気の中にあってもです。先生が不同の扱いをしよるとは思わせんで済むだけの物を、私は内容に持ってるんだと。ですから皆さんがそれを信じて下さる。ですから皆さん以外の、まだ信の薄い人が沢山おられましょう。
 そういう雰囲気やら、そういう問題がもし起きたらです。皆さんが、親先生はそういう人じゃないと、そういう事ではおかげを受けられないという事をですね、やはり指導して行かなきゃいかん、教導して行かなきゃいけん、また教えて行かなきゃならん。そういうような物も、まあお互い信者としての信心。御用の上に必要な事ではなかろうかという風に思いますですね。
   どうぞ。